C君の持ってきた本

筑波フォーラム53,pp.7-11(1999)

1.水と土とコロイド科学前史

筆者の研究室では自分達の研究に直接関係が無くても、ちょっとした足しになるようなチラシ や記事が雑誌の最新号などとともに目につくように雑然と置かれる習慣になっている。先日、 大学院生のC君が「これ、おもしろいっすよ。」と言って、一冊の本を実験台の上に置いていっ た。東晃「雪と氷の科学者・中谷宇吉郎」(北海道大学図書刊行会)である。中谷が「雪は天か らの手紙」で知られる雪氷研究のパイオニアであることはお茶の間のテレビ番組などで広く紹 介されている。本書は英国留学で一流の成果をあげた物理学者が、赴任先の札幌において 自己の専門である原子物理学の研究上の地理的な不立地を痛感しながら、一方で舞い降りる 雪の結晶の多様な形と風土に根ざした研究に魅せられ、大雪山における忍耐強い野外観察 や兎の毛を使った人工雪の結晶の作成から中谷ダイアグラムを完成させたドラマに始まる中 谷の研究生活の全貌を明らかにすることをめざして執筆されている。その生きざまは雪ならず とも科学の目的、方法、意味、価値を我々に問いかけている。この本をきっかけに最近C君は 中谷宇吉郎の周辺に凝っているようで、そのおもしろさを伝えてくれたのだ。以来、研究室では 中谷物理がちょっとしたブームとなった。

宇吉郎と寅彦

中谷は寺田寅彦門下の一人である。寺田は言わずも知れた明治の日本を代表する物理学 者であり、日常の身近な現象を物理の対象として扱うことによって物理学の守備範囲を大きく 広める種を蒔いたことでも知られる。それらは「尺八、キリンの斑模様、粘土のひび割れ、錯 視、線香花火、火山と地磁気、地震と災害、風紋、金平糖、雷、墨流しのパターン、椿の花の 落ち方、、」一風変わっている。しかし、物理専攻の友人は寺田が取り組んだ問題の中にはカ オスあり、フラクタルありで、数十年の歳月を経た今日において十分通用するものであり、生命 とは何か、社会と科学の関係など現代科学の大きな問いを試みると、そのルーツを寺田物理 に見出す確率が高い、と教えてくれた。中谷と寺田はこの師にしてこの弟子ありと言った所だ ろうか。気がついてみると、実験台の上には両人の随筆集や単行本、さらには関連する論文 のコピーなど沢山の資料が散在している。

ところで、C君によると「寺田は膨大な数の問題に気がついたが、ある一つのことをやりぬくと 言う点においては弟子の中谷のほうが徹底していたのではないか。」とのことである。実際、寺 田は多くの問題を悪く言えば「出しっぱなし」にしているのに対し、中谷の方は扱った問題は数 こそ少ないが、手がけた問題に対しては徹底した基礎からの実験と観察を行い、現象の支配 法則を見出し、翻って関連する工学的課題に対しても一定の回答を与えるのである。中谷の 雪氷研究はダイヤグラムのみならず、後に航空機の着氷対策、根室の霧調査に基づいた軍 事演習、寒冷地における道路や鉄道の凍上対策の提言へと展開する。こうして見ると科学生 活において寺田は問題発見型の思想家であり、言うなれば吉田松陰のような存在であるが、 一方、中谷は現場に入っていく行動派であり高杉晋作のような存在だったのかもしれない。

子弟関係にあった中谷と寺田が持っていた最も太い共鳴弦は、歴史社会現象まで含め状況 を捉え臨機応変に対応しながら日本独自の科学文化を創ろうとしていた態度にある。両人に よって残された膨大な量の随筆は科学の方法やその背後にあるべき思想について述べてお り、西洋科学の安易な輸入、とりわけ日本人の精神性を忘れ西洋近代主義の崇拝に盲目的 に走ることへの批判、あるいは警告ともとることが出来る。「学」のただ乗りと言う国際批判を 見据え、独創性の創出を本当に目指すのであるならば、寺田の残した日常のありかたに関す ることばや中谷の取った行動は大いに参考になる。「アインシュタインやボーアは、おそらく通 俗講演やや宣伝の産物ではなかった。天才の芽が静かな寂しい環境の中に順当に発育した にすぎない。」教育をあずかる者として検証すべき一言である。「線香の火を消さないように。」 中谷によると、この言葉は、研究の継続継承の重要性を説くとともに、極東地域にある日本の 科学研究のストラテジーを示している点において重い意味があるそうだ。

農業物理事始

私達の研究室は農学系にあってコロイドを材料に物理的思考法の適用を志している。C君の 紹介してくれた本には我々の研究に関連し見逃せない内容の記事がいくつか見出された。中 谷が終戦後直後に農業物理研究所を設立して実施した「農業物理と国土の科学(5章)」もそ の一つである。その構想を綴った「農業物理学雑話」の冒頭で、中谷は「一寸考えてみると、少 なくとも我が国の農業には、化学はかなり取り入られているが、物理学は殆ど入っていないよ うな気がする。」と述べ、農業における「ちゃんとしたものの見方」としての物理学の欠落とその 必要性を訴え、さらにそのことを農業生産の向上に直結させるかたちで実施したのである。農 業とは人間が様々な自然の要素に対して働きかけて生産をあげていく営みとして捉えられる が、その行為には経験によって育まれてきた様々な因子が複雑に絡みあっている。これを単 純な物理学の枠組みに載せるのには複雑なものの中から本質的な輪郭や骨組みを浮き彫り にする一流のセンスがいる。中谷は既存の文献に殆ど頼ることなく自ら積極的に農村の中に 入り込み、自分の眼を信じて調査研究の陣頭指揮をとり、僅か数年の短期間に、冷害対策、 水害調査、泥炭地問題などの実践的課題に数々の先駆的足跡を残した。

中谷の寒冷地対策や農業物理研究は現代のフィールド科学の走りと見なすことができる。輝 かしい成果が次から次へと生まれた秘訣はなんだろうか?それはもちろん中谷のものをみる 力によるのだろうが、精密な実験室での小規模の実験の成功がなければその成功はありえな っかただろう。これは教育的に重要な意味を持っている。いきなり複雑な系に入ってしまうと表 面的な多様性に目を奪われ流され収集がつかなくなってしまう。比較的単純な系で現象をとこ とん見てその支配法則を誘導すること。ものの見かたそのものを養う研究期間があってはじめ て現象をはかる独自のものさしが備わって行くのである。ダイヤグラムの作成は中谷にとって 普遍性のある支配法則の発見とその適用性の立証と言う点において、まさに理想的な教材で あり訓練だったのである。農作物の冷害の研究では雪氷科学の経験が現象をみるものさしと して役にたったことは想像に難くない。事実、細胞凍死の解析では中谷ならではの氷結晶の相 転移の知識が生かされ、細胞液の凍結の観点から生理学上の問題に踏み込んだ議論がなさ れている。加えて、航空機の着氷対策で培われた実践の場で科学すると言う方法論が農業物 理で結実したのである。

洪水の翌年は豊作

昔から農民の間では「洪水の翌年は豊作になる」と言い伝えられていた。中谷は忠別川の洪 水調査で、堆積した土砂に含まれる粘土の含有量に着目することによって、言い伝えにはちゃ んとした根拠があることを明らかにした。粘土は生物生産において特別な意味があることを本 能的に直感していたようだ。同様の直感はオパーリンの「生命の起源」にも見出される。生命 誕生の場が粘土表面に求められているのである。このアナロジーを進めれば古代文明が氾濫 原で生じた理由も氾濫原に堆積した粘土のポテンシャルによることになる。この種の命題は下 手をすると大法螺になってしまう可能性もあるが、一方で地質学、考古学、生命科学が一同に 会するスケールの大きな夢を感じる。中谷が導入したかった「ものの見方」とはこのような問題 を特定の分野に囚われることなく証明して行く行動力だったのかもしれない。

T君のコメント

T君は私がクラス担任をしている学類の1年生である。最近、基礎演習の自分の発表の番が 近づいて来て、OHPやらカラーコピーやらで頻繁に研究室に現れている。私とC君のこんなや り取りにも「大学でもものの見方が大切なんですね」なんて耳を傾け、「で、中谷の農業物理は どのように継承されているんでか?」と、質問してきた。調べて見ると、大学では中谷のプロジ ェクトの撤退と同時にその研究は終結しているが、北海道農業試験場などで微気象研究など で継承されたようであった。しかし、もはや豊作と洪水のような大きなスケールはなくなったよう に感じられる。「どうやらプロジェクト研究の宿命として線香の火は絶えてしまったのかもしれな い。しかし、同じ分野から稲が風にたなびく様子から大気乱流の構造を洞察した研究などが「H ONAMI」と言う流体力学の国際学術用語を残すに至っており、さらには植物の光合成にとっ て風が大きな支配因子であることなどが解明されており、一概にそうとは言いきれないかも知 れない。」と、T君にはお茶を濁した回答をした。数日後、T君から「美しいものを本当に美しい と思った人が美しいものを継承して行くのではないでしょうか。」と、メールが入った。

オランダからの訪問者と帰国者

大学院生のM君はL教授の集中講義を聴くために、1年間の滞在を終え先日オランダから帰 国したが、L教授が触れた大学改革の問題について「お金がないといってもオランダでは大学 院生が大学から一定の給料を受けている。給料はおろか授業料まで払わされる日本の状況と は大違いだ。大学改革についても大学院生が職員の集会に出席する様子をみて、民主主義と は何かを考えさせられた。」とコメントしてくれた。日本の大学院生、特に博士課程の院生から 授業料が徴収される状況を見てL教授は「研究を行って行く上で大学院生は不可欠な存在だ からオランダでは考えられない。」と言った。

おわりに

こうして見てくると、我々は研究室の日常生活の中で学生や院生から非常に多くのことを学 んでいる。これは授業と言うメディアでは伝達ができない研究や教育の糧を養う重要な要素で ある。授業をする側受ける側と言う単純な図式はここでは適応しづらい。中谷や寺田の時代の 授業料はどうなっていたのだろうか?こんな疑問は愚問なのだろうか。