農学・環境学とコロイド科学の交叉点から

農業土木学会誌 71巻2号 p.148 (2003)

1.水と土とコロイド科学前史

古代、アリストテレスは自然界を構成する4つの元素として、火、水、土、空気を挙げた。人類 が環境を意識した初期の段階から、水や土は人間をとりまく環境を構成する最も大切な要素と して認識されていたのである。従って、その後に分化し発展したもろもろの科学において水や 土がその起源にあってもなんら不思議はない。我田引水になるかもしれないが、コロイド科学 においてもその一面を見出すことが出来る。

コロイドというとシャンプーや油汚れを落とす合成洗剤などを連想する。従って、学問的には 応用化学の一分野ではないかというのがあらかたの見方であろう。事実、大学院を修了した ばかりの駆け出しの時分、コロイドの学会に出かけ化学工業に携わる業界の関係者に会って 話しをし、農学部、しかも農業土木からコロイドに興味があると言っても、随分怪訝な顔をされ た。しかし、コロイド科学のルーツをたどると、大事なところで水や土の科学との結びついてい る。帝政ロシアの地質学者ラウスは自分の庭の土に電極を指して実験をしているうちに、電気 浸透現象や電気泳動現象を発見した。この瞬間、人類は土が電気を帯びているという知見を 手にしたわけであるが、この現象は、その後、土に限らずあらゆる物質の界面に普遍的に見 出され、コロイド化学の中心的課題の一つになった。イギリス、ヨークシャーの農場主トンプソ ンは肥料である硫酸アンモニウムの水溶液を、土をつめたポットの上から注いでも、ポットの 下端から滲みだしてくる溶液には全くアンモニアが含まれていないことに気がついた。トンプソ ンが発見した肥料成分の保持や交換は土の中で植物が栄養分を吸収する過程において非常 に重要なものであるが、後に台頭した高分子工業において生産された合成樹脂のイオン交換 現象として本格的に研究されるようになり、現在は浄水器やクロマトグラフィーなどの原理とし て広く利用されている。これらは身近な水や土の中で見出されたできごとが、より普遍的なコロ イド科学の対象へ発展していったほんの一例に過ぎない。

2.環境コロイドの特徴

上で述べた例はまた「コロイドと農学および環境科学の諸問題は非常に深いところで根源的 に結びついている。」ことの現れとも捉えることが出来る。今日、環境問題の認識が高まるな か、その関係は一層密である。水処理における凝集沈殿、膜分離、活性炭吸着などの技術は 言うに及ばず、農耕地の保全に必要な化学性を加味した土壌の物理性の理解、地層中の水 や塩類の移動、貯水池の濁り、河川河岸の侵食、富栄養化した底泥の巻き上げ、感潮河川 の物質輸送、軟弱地盤の力学特性、等々、これはすべてコロイド現象と何らかのかかわりを 持つ。

しかしながら、こうした環境問題に関係するコロイド科学は、理学的に展開されてきた従来の コロイド科学にないいくつかの特徴を有している。まず、挙げるべき点は、対象となる系が本質 的に不均一であることである。これまで化学で用いられてきたDLVO理論注1)は均一な材料表 面を想定して導かれたものである。実際の土や水質を対象に解析を行う場合、DLVOが厳密 な意味で定量的妥当性を与えるケースは意外に少ない。しかし、だからといって、この理論が 役にたたないと言うつもりは毛頭ない。理論に示された解析のフレームはそれだけで十分な価 値がある。理論の構成を理解しその誘導の仮定と限界をきちんと認識した上で、不均一系とし ての環境コロイド科学というべき分野の展開が求められているのである。

次に挙げるべき点は、環境問題で対象となる系は常に非平衡であることである。環境の問題 を議論する場合には時間のファクター、言い換えればダイナミクスがわからないと話にならな い。平衡熱力学に基づく理論は変化の最終到達点に照らし合わせ、変化の方向の真偽を示 すに過ぎない。予測された反応が、一分で終了するのか、1時間かかるのか、あるいは1年た ってもほとんど進まないのか?平衡熱力学は何一つ教えてくれない。これでは気象や水質の 変動予測など出来ようはずもない。この様な問題を解くとき、実は農業土木が培ってきた移動 現象を扱う水理学や土壌物理学の方法論、あるいは土質力学的な構成方程式による思考法 が大いに役に立つ。突き詰めて考えると、環境中の物質移動は物理化学的な反応の要素と水 理学的な移動の協同現象なのである。

公害問題の発端として知られる足尾鉱毒の原因物質である重金属は土壌コロイドに吸着し て移動する。金属イオンの挙動だけならば、これは化学の問題として処理されてしまうだろう が、粘土や腐植などのコロイドに取り込まれた段階で、この問題はコロイド科学の問題に転化 する。ここで問題となる土壌コロイドの大きさのスケールは高々数μmであるが、コロイドの挙 動は水質によって左右され、条件さえ整えば自然界にあるコロイドは凝集しどんどん大きな粒 子に成長し、1mm程度になることも珍しくない。こうなるとその移動は水理学の言葉を使わず に記述することはできなくなり、結果となる運搬集積の解析にはもっと大きな水文学的な素養 が必要となる。渡良瀬川の遊水地で、足尾の鉱毒がカットされたという報告が、以前の農業土 木論文集にあるが、こうした移動の問題をメカニズムとして捉える場合には、最低でもコロイド 科学と水理学に関する2つの方法論のマスターとその融合が必要となる。つたない自らの経験 からだけでも、この2つの科目は確かに複雑な現象の中から信頼できる筋の情報を得る方法 を提供すると判断できる。

ただし、それで十分かというと決してそうではない。環境問題を扱う最大のネックは、問題を 処理するための科学的な基礎基盤がまだ整備されていないにも関わらず、それを丹念に整備 して行こうとする社会的雰囲気が希薄であるところにある。モニタリングにおける手法やシステ ムの構築、環境基準の設定、リスク評価、そのどれをとって見ても、現象のメカニズムの理解 を飛び越した議論は危険である。農業土木の研究者、技術者が“環境”を志すのであれば、従 来の工学的方法に科学的なものの見方を組み込んで率直に自然を理解するという発想が必 要であり、今後、時間をかけてそれを方法論のレベルで蓄積していくこと強く求められている。

3.プロジェクト志向の研究体制

現在、改革のプログラムにない大学はないと言ってよいだろう。将来の研究や教育を担う若 手教官、大学院生からの賛否はまったく問わず、90年代から粛々と進められていた改組改革 にとどめをさすかのように国立大学は平成16年度より独立行政法人化が開始される。しかし、 自分の周りを見る限り、教育現場は一連のめまぐるしい動きについていけず、未消化の状態 が何年も続いているのがこのところの実態である。時間をかけ学生に接し、落ち着いて自由に 研究教育活動に専念するという本来の姿がどこかに行ってしまったように感じられるのは筆者 だけではないだろう。活性化とは、外部資金、競争的資金の獲得に翻弄し、申請書、報告書、 評価レポートなどの作成になんともざわめく状態をさすのか?と疑問を感じずにはいられない ほどである。

実は、コロイドと環境の問題について欧米ではプロジェクト研究が盛んである。これはAGU, ASCE,ACS注1)などのレポートから読み取ることができる。ただし、欧米と一言で言ってもアメ リカとヨーロッパはだいぶ様子が異なるようである。共同研究で個人的にコンタクトを取ってい るワーケニンゲン大学のコロイド研究室注2)に限っても、土壌や地下水中での農薬や重金属 の動態に関する研究が、いわゆるPH-Dプロジェクト注3)として10年以上のスパンで取り組 まれている。EU統合や大学名の変更注4)など、社会的な圧力の中、学内の機構改革も急ピ ッチである。友人のある助教授は、改革の結果、給料の10~20%は民間企業もちになったと こぼしていた。しかし、である。教授の身分をゆるがせてしまうようなこうした環境下にあって も、基礎研究と教育に関する価値観は不変である。PH-Dプロジェクトはタイトルがたとえ非常 に実用的なものであっても、4年間の契約が成立し、ひとたびキックオフされれば、担当する大 学院生に課せられるプレッシャーは「それが何に役に立つか、どのようなパテントになるか」と いう技術的回答よりはむしろ、「長大な研究史をレヴューし、知識体系に責任をもち学問的な 位置づけの中にオリジナリティーを明らかにすること」なのである。国際会議で会ったスウェー デンからきたある大学院生は私の研究に興味を持ち「是非、自分の研究室に来て講演をして 欲しい。」といってきた。聞き返してみると、必要とあれば彼の采配で旅費も支払えるとのことで あった。つまり、プロジェクトにおいて大学院生は、サイエンティストとして権限と責任を持たさ れ、その立場に立たされることによって、一人前に養成されていくのである。このようにプロジェ クトの導入も教育中心主義のなかに明確に位置づけがなされている。

しかし、このようなルールをアメリカの教育現場に適応することは出来ないだろう。アメリカに 留学したある同僚は、プロジェクト研究に対する教育的配慮は希薄で、次から次へと成果を出 していくことのプレッシャーは相当なもので、看板教授は授業をTAに任せ、研究(出張も含め) に専念している、とコメントしている。アメリカにおけるこのような実情はヨーロッパ人の間にか なり浸透しており、あるハンガリーの友人は自国の教育に誇りを持ちつつその制度を自負し、 最後に職がなければアメリカにポスドクをすればよいとまで言い放った。先日、学内の研究発 表に際してとある教官に発表内容について質問したら「今は特許申請中なので明確にお答え できません。」と返答された。今後、競争的資金の導入が進めば、こうした形で学術研究の健 全なやり取りが阻害されかねないと感じた一こまであった。

4.過去に目を閉ざすものは未来にも盲目である

とはいうものの、世の中の動きは膨大な貿易赤字と財務赤字を抱えるアメリカという国のいう グローバルスタンダードの方向を向いてつき進んでいる。農業土木の教育現場も独立行政法 人化と並んでJABEE対応、さらには大学間統合の対応の荒波にさらされるのは時間の問題で ある。しかし、こういう時であればあるほど、時流に惑わされず、初心にかえる必要があろう。 あまり深く考えているわけではないが自分達のグループでは「オーソドックスに応用数学や物 理学など手法となる科目の訓練を黙々と実施すること。」を念頭に活動を続けている。手前味 噌になってしまうが、研究室では、研究テーマと並行して応用数学、水理学、物理化学のような 手法になりうるような体系だった科目の習得のセミナーにかなりの時間を割いている。これは 短期的な成果につながるものではないが、“環境”を相手にするのであれば最低2つぐらいは 基礎科目をマスターしたいと考えている。バイテクやナノテクのような派手さはないが、こうした 教育中心の線に沿った活動にたいして、環境とコロイドの接点にある研究課題は格好の教材 を提供してくれる。幸い、農業土木は今日に至るまで、農学部の中にあって数学や物理学的 手法によって研究を展開してきたため、適した材料が豊富に存在する。過去を振り返り、農業 土木研究別冊から論文集が創刊された1960年代当時の研究をみると、水田やアースダムな ど、日本独自のフィールドや材料にヒントとなる例をたくさん見出すことが出来る。今後はこれ らをコロイド科学の視点で整理する作業が、環境科学に対する農業土木の貢献として重要に なると考えられる。

もう10年以上も前になるが、学術振興会の会長をされていた澤田敏男氏が農業土木学会 の懇親会の冒頭挨拶で、「21世紀は環境の時代、そのなかにおいて農業土木技術の活躍す る場面はふんだんにある。」と、檄を飛ばされた。この実現には、自然に対する人間の営みの 一つとして農業のありようを位置づけ、その研究成果を技術の蓄積や政策に転化していく持続 的努力が求められる。これはたやすいことではない。

  • 注1) コロイド溶液が味噌汁のように凝集するか、ミルクのように分散して濁ったままあるか を予測するコロイド科学の金字塔とも言うべき理論。
  • 注2) AGU:American Geological Union, ASCE:同土木学会,ACS:同化学会
  • 注3) 物理化学およびコロイド科学研究室,http://www.fenk.wau.nl 
  • 注4) オランダでは博士大学院生はPH-Dプロジェクトと呼ばれる、研究プロジェクトに従事 し、全員給料を受ける。授業料の納付の義務はない。このような財政を可能にしているのは、 日本の倍に近い税額ではないかというのが筆者の推論である。
  • 注5) ワーケニンゲン農業大学は昨年よりワーケニンゲン大学に名称変更した。